かもめのジョナサン

月刊致知の対談が五木寛之氏と横田南嶺氏の対談があり、いくつかの双方の著書を拝読しました。
その中で表題に記載している『かもめのジョナサン』は古くから聞いてはいたものの読んでおりませんでしたので大変興味深く拝読しました。
致知の中でも触れていましたが、かつてのカルト教団で殺害されたカルト教団幹部が自らをかもめのジョナサンに例えて自らの心情を示していたことも掲載されていて、その後の第四章を理解しないが故の過ちでもあるような示唆があることも気になっていました。

横田南嶺氏の『二度とない人生だから、今日は一日笑顔でいよう』という本にも大変勇気付けられました。
かもめのジョナサンは以前に第三章までが綴られており、2013年に第四章が追記されたとのことでした。
確かに第四章が入ることで意味合いは大きく変わってきているようにも感じます。
同月の致知に五木氏が宗教の始祖の没年との関係を指摘されていました。
私はそこに大いに感じるところがあります。
その点、仏陀においては高齢まで存命されていたからこそ伝えられる事もあったと思います。
年を重ねることで身体の不自由などは増すことでしょう。
それらを受け入れ理解していただいた方が、高齢化社会においては認められるように思います。

私は以前からマルクスの共産主義に対して一つの強烈な違和感がありました。
それはマルクス自身が一度も成功者と言われるような経済的に恵まれた環境に存在したことが無いからです。
富める者が妬まれる事は当然の理屈として理解できます。
ただ、富める者には富める者なりの葛藤や悩みがあります。
富める者、貧しい者の悩みを理解して求道することが無ければ、これだけ恵まれた社会での導きには難しいように思います。

かもめのジョナサンの第三章までは、キリスト教を強く感じます。
第四章によって仏教とも親和性を覚えられるのでは無いでしょうか。
私自身が宗教家ではない為、あまり踏み込んだ発言は出来ませんが、魂の救済に宗教は不可欠でしょう。
誰もが死にゆく無常な世界に畏怖の心を有していると思います。

ホモ・サピエンス誕生から二十万年、文字ができて五千年、人類なりに多くの葛藤を経て、文化を形成してきています。
これらも包含しながら、常に次世代の事を考え実行出来る自分達でありたいと願います。
後輩から奪うような『未来からの前借』だけはしたく無いと真に願いつつ、次世代の為に可能な限り正しい未来を与えられるよう自分自身を律して参る所存です。
多くの本との出会いに感謝ばかりです。