アクティブ・ノンアクション

ザ・会社改造を読んですぐに意志力革命も読み直しています。
先週、大きな別れを迎えましたので人生の短さと達成できることの少なさを感じ、深く考えている次第です。

仕事が忙しく充実していることは、人間として生きて行く中で、とても重要なことだと思っています。
深い思考が出来ていなかった私の20代の頃には取り分け大切で目の前の事に一所懸命になり続けることで、隣の芝生を見ずに半分盲目的に猪突猛進する時期は結果的に必要でした。

その後、KAILを経て考える角度が大きく変わり、「自分が何者でどこに向かうのか?」を考え続けています。
勿論目の前にはお客様がいらっしゃったり、いろんな社会課題に取り組む必要性を感じて、恵まれて日々を忙しく過ごさせていただいております。
それでもふと立ち止まり考える時に短い人生で何を成すべきか?成り得る最高の自分とは?に想いを馳せる機会が増えました。
「40にして不惑」の言葉を僭越ながら、「個人ではなく社会の為に生きる」と決められたと思っていたのも束の間で、「具体的には何をするの?」の問いの前に答えを出せずにいます。

これこそ社内でも至る所で会話の中に出てくる言葉の定義と言いますか捉え方の違いがあることを思い知った次第です。
良く「考えろ」の発言の後には「考えていますけど、上手く言葉に出来ません」「考える時間が無いのです」などと返答が有ったり、自らもしているのかもしれませんが、思考のレベルについては触れられていなかったように思います。
人間は確かに考えています。
考え続けているのも事実ですが、そのレベルは大きく差が有ります。
今日の昼ご飯のことを考えているのとさまざまな社会課題の具体的アプローチを歴史的背景から捉えているのでは、全く質が異なります。
それでも言葉に出てくるのは「考えている」です。
考えるのは当然としてやはりその次のアクションで評価されるのも当然と言えるでしょう。
理解の度合いを最も表現するのは、行動です。

どんな気付きも思考も行動が伴わなければ、過去にCMでもあった伝わらない思いやりと同じです。

私自身が本当に解決したいこと、それは日本と言う国家が今後も永続的に自信と誇りを忘れず、過去の偉人や周辺に感謝をして、未来を明るく感じることです。
そのためには経済が重要ですので、経営という手法を使って貢献をしていきたいと願っています。
自分の分相応を理解しつつも、成り得る最高の自分を目指し、日々奮闘を継続します。

表題の件について触れるつもりがなかなか思考がまとまらず、また別の機会に触れたいと思います。