喜びをどこに置くか

人生における喜びは人それぞれあることだろうと存じます。

そんな中で人生の多くの時間を費やす仕事と言う物において何をもって喜びとするかは個人の価値観によるものですけれども、仕事への姿勢や周囲からの評価に大きな影響を与えるものだと思っています。 

仕事での喜びで一義的に出てくるのは、報酬だろうと存じます。
私にとっても労働賃金は日々の糧でもありますので、重要であり軽々に判断することではありませんけれども、日々個人の報酬に頭が向いているようでは良い仕事は出来ないように思っています。
年に一度、真剣に自分の成果と向き合って、評価を貰ったら、それ以降は高い目標めがけてまた邁進するのみだと思います。
評価に納得していないからと言って、手抜きの仕事をしていては、結局の所自分の評価や能力を下げることにしかつながりません。
全力をもって3年取り組んでも納得のいく評価をされない組織であれば自分とフィットしていないと捉えるべきでしょう。
ただ、一般的には満足する報酬とは現行の2倍であって、対外的に比べたり、他業界と比べる方は少なくて、自分自身の感覚と社内での差でしか判断していないようですので、正しい評価をされているかは転職した際に倍程度の報酬を貰えるかが納得解であるようにも思っています。

という事で、私の仕事の喜びはあまり報酬のアップダウンに依存していません。
(繰り返しますけど、報酬はとても大切なもので低くて良いとかは思う事は無く、納得のいく企業に務めることで、報酬に心を奪われ過ぎない環境が大切だろうと思っています。)

そうすると、どこに喜びを見出すかと言えば、一つは自分ではない人の成長を感じた時です。
部下員に限らず、接した方になんらか少しでも影響を与えて、行動が変わったりしたら、掛け値なしにとても嬉しいです。
人の成長に携われる業務は本当に幸せを感じます。
ただ、人の成長にスコープをどんなに当てても自己満足との境目がどうしても明確には出来ません。
こちらの押し付けになってはいけませんので、やはり仕事の喜びのメインとはしないようにしています。

それでは、何を一番の喜びとしているかは、私が構築した制度や仕組みが自然と回っている状況を確認できた時です。
導入当時は抵抗されたりしたとしても、ある一定期間を経て定着すると、以前の環境には戻る気にならず、当たり前に変化を受け容れていて、更なる推進に向かっていたりすることを幸せに思います。

KAILの学びで時間を刻み教える人ではなく時計を創る人になりなさいと指導されたことが有りました。
時計が無い時分に時間を刻み教えることが出来る人は、とても重宝され優遇されていたことと存じます。
それでもそのようなコンフォートゾーンに甘えるのではなく、誰でも時を刻めるように時計を創り出し提供して、自分自身は更なる価値提供に進んでいく事が出来る人間で有り続けたいと思います。

出来なかったことが出来るようになった事実だけで終わらず、それが他の人にとっても学べて、更には成長が持続可能な状態に持っていくことこそを喜びとして行く所存です。
その為に必要なのはやはり生涯学習であり、自らの徳を積み続けることでしかないと思います。
生きている間に評価されないことも有るかもしれませんけど、それでも中長期的に社会の役に立てる人間になるべく日々どん欲に学んでまいります。

個人的に成長していくれているスタッフへの喜びを感じながらも、自らの戒めとして自分のやるべきことを考えてみました。