熊本・大分を中心に被災されている方々にお見舞い申し上げます。
先週より、熊本大分を中心としてほとんどの九州の方が経験したことの無い地震体験が発生しています。
北海道で育ち、東京での学生生活もしている私にとっては地震に対してある程度免疫がついていたことを感じます。
どこにいても地震の警報が携帯から鳴り出した途端に皆さんの身体が硬直していく様を肌で感じます。
縁も有って、熊本県入りを二回ほどさせて頂きました。
当然ですけど、地震被害は場所によって異なりますので、道中でも温度差を感じるような場面は沢山ありました。
SNSを通じての情報でも自治体毎に対応レベルが大きく異なっているようにも見えます。
この点は東日本大震災と同様の印象です。
現時点での私の印象は、「東日本大震災での経験はどの程度活用されたのだろうか?」と気になっています。
私自身も経験したことと同じ課題を抱えているように思いましたので、私の行動も含め今後同じように悔しい思いをしないで済むように何かを為していきたいと5年を経て思う次第です。
情報の取捨選択も個人に拠って大きく分かれているようです。
5年前との大きな違いはSNSの更なる発展でしょうか。
個人で情報が発信できる事で、さまざまな状況を理解することが出来ています。
マスメディアの限界をカバーできている点も有るのと、被災地とそれ以外の心の距離を分断しない枠組みは大変素晴らしいものと感じています。
その分、情報の氾濫や心無い発言なども見受けられるのは、どんなものも使いようなので悪意との対峙は理性ある人間たちが毅然と接していく重要さも感じている次第です。
支援に関しては個人で出来ることを出来る範囲で行う事で十分だろうと思っています。
誰かに強制されるのではなく自らの意思で行動する選択肢を与えられることのほうが、より力を発揮できるでしょう。
とにかく一歩を踏み出してみることだと思います。
有事の際には価値観が一緒でも手段や手法は差が出てきます。
このような際には私は想いを大切にしてほしいと考えています。
目の前の救援物資は被災者にとって死活問題でもあります。
ただ、人間の生命力は感情によって大きく活力をましていきます。
被災地に居た際に仲間からの声掛けや直筆手紙などに如何に救われたことでしょう。
知り合いが直接現地入りしてくれて、笑顔を見せてくれることの価値は経済を超越して私には救いの力になりました。
東日本の代には被災地において極力ネガティブなことしか言わないテレビは見ないようにしていました。
それでも福島や相双地区の取扱いは他の県との違いを感じさせられました。
人間は絶望した時に活力を失います。
孤独ではなく多くの方と繋がっている、自分たちは見捨てられていない、と言う事実を確信するには訪問する人間が必要です。
気丈な方の多くは少しの無理をしてでも避難所は活用されず、不安な中ご自宅近くでご自身の備蓄のみを頼りに生活を継続されます。
東日本大震災で声をかけられて多くの方が喜んでいたのは。
「被災者は頑張らなくていい、頑張るのは周りの人間だから、どうかたまには甘えてください。そして今後他の地域て同様のことが起きたらその際は手伝ってあげてください。」
と言う趣旨の話でした。
被災者で気丈にされている方には是非こんな機会におかれてはご家族や親戚、お知り合いの言葉に甘えて無理をされないことを希望いたします。
そして、失ったものを見て絶望するのではなく、残った者の義務として明るい未来に希望を持っていただきたいと願います。
決して容易な途ではありません。それでもご先祖様は営々とこのような道を歩んでまいりました。
お互いに手を取り有って険しくとも次世代に繋がるその先を見つけてまいりましょう。
今週末は東日本大震災の復興支援でもあり、公志園で知り合った日本が誇る方々と旧交を親しむるべく、東北フードマラソンに参加してまいります。
走りながら、これからの日本の有りたい姿や自らの品格を高める努力や、起きている森羅万象が何を示唆していてどのような意味を持つかを考え続けます。