福島にて考えたこと

生まれて初めて福島県に入って、相馬(相馬市・南相馬市)に行かないという経験をしました。
とは言え、相馬中村藩で考えますと南標葉の大熊町と双葉町には寄って来ました。

今回は初見の方が多く色々な方々のお話を聞く機会を頂きました。
立場が異なれば視点も当然違うため、刺激になったり気付きになる意見を沢山頂戴できたと思っています。
当事者だからこそ見えなかったり、気付けないて事も多いのかもしれないと普段の生活においても還元できるような経験が出来ました。

また、当事者でないからこその冷静なご意見も真摯に受け止める必要があると感じました。
つまりは前提条件が異なると行動パターンの大きな変容が可能になるので、マインドセットなどがどうなっているかを理解してから議論を進めたり、共通の知識認識に揃えないと、議論が空中戦になってあまり本質的なものにできない為、やはりファシリテートする人間は重要だと感じました。

これからますます多人種や多くのバックグラウンドを持った方々と触れ合う中では、伝える行為に大きな影響を与えるので、日々教養を深めていこうと感じ入りました。

そんな中で、公志園に参加させていただいて気付いたことに繋がるものがありました。
それは、気付けば福島の人間は「可哀想な人間」と言うくくりに入れられているように感じました。
公志園での多くの義憤は障がい者やがん患者、ホームレスなどに対して、自分とは他人事にして取り扱う事や、同情心をもって接する事への物が多かったように思います。
これらは他人事ではないですし、皆尊厳を持った人格者であるという事をしっかりと認識してほしいと強く思っています。

福島人に対してもそのような感覚が形成されつつあることを感じ、このままでは悪い方向へ導かれる恐れを感じています。
現在、私が生活している筑豊には石炭六法のお蔭で生活保護者が溢れた後、3代にわたって生活保護者などが生まれています。人間は弱くもあるのでこのような状況にもなるのだと肌で理解している私は震災以降も手厚い保護は、補助金漬けを生み出し怠惰な人間を創り出す可能性があることを最も恐れていました。
これに同情心が加わるとますます権利を主張できる機会を与えてしまうことになります。
現時点で、炭鉱の閉山が何かに関係するとは思いませんが、マインドセットが保護をしてもらうことの当然性を正当化するものになってしまっています。

私は、恵まれた環境で育てて頂いたので、皆様の環境を正しく理解できていないことも多々あるとは思いつつ、それでも日本は世界に比して大変恵まれた国家であると確信しています。

そして、世界に関する国家としてそこに住む人間に必要なのは尊厳であると思っています。
尊厳を持てなければ、卑屈になって悪い循環が始まっていくのだろうと考えています。
その尊厳の為には志であったり、信念も大きく関係してきます。
そういった意味で何より必要なのは教育であろうと確信した次第です。

私が尊敬している方の発言で「いつの時代も教育こそが最もリターンの多い投資なのでしょう」という言葉が頭から離れません。
限られた時間の中でますます教育に向け力を注いでいきたいと思いました。