程度大切に

麻生家の家訓であり、グループに入ってからはよく目にも耳にもする言葉です。
家訓としては「程度大切、油断大敵」となっています。
もう一つ、吉田茂から多くの場所に記載された「無私」と言うのもグループ経営において機軸になっているように感じておりまして、太郎代議士の「為公会(現、志公会)」も影響を受けているものかと存じます。
私は次男でもありますので、長男とは異なる教育を受けてきました。
結果として分相応と言う言葉を常々意識していたように思います。
その昔、「一升瓶には一生の水しか入らない」との言葉に触れ大いに感銘を受けたことを忘れておりません。
この世に生を受けたことに深く感謝して自分の能力に見合った活動をすることの大切さを色んな場面で体感してきました。
師匠からは「等身大の自分を知ることがとても大切」と2002年に教わってから特に意識していますものの、この難しさも痛感しているところです。
この度、麻生のOB会が作成されました文書に触れ、『程度大切』についてまた感じるところがありましたので、記載しておこうと思います。
麻生百年史など多くの場所に記載されている内容ですけれども、麻生太吉翁が鶴次郎と呼ばれていた13歳の頃に与えられた子牛を通常以上に稼動させて子牛も膝をついてしますほどで、一部の荷を自らが背負うほどの仕事を終わらせたことに息巻いていると麻生賀郎に一喝され、勘当の処分を受けたと言うエピソードです。
その際の賀郎氏からの言葉に「今日は汝と二人のみではない。盆会に当って先祖代々の仏様がお出になっている。(中略)よく自分が許しても先祖に相済まぬから、只今この家を勘当する」「今度の事は軽微な事と言ったが、凡そ処世上、程度ほど大切なものは無い。この程度を知らぬ者ほど始末におえぬものはない。」とあります。
今までに何度となく読んでいたこの文書に別の考えで触れることになりました。
それは、
1.自分自身の判断のみではなく今までの歴史の中で、自分よりも尊重するものが居るからこそするべき判断力
2.他人に影響を及ぼす人間はその人生にも責任を持つ必要があって、個人の判断ではなく各人の人生を考えると言うこと

物事に不可能を決め付けるのはよくありませんけれども、今までの経緯から現時点で出来ること出来ないことは分別しなければなりません。
成り得る最高の自分を目指していただくのは当然ですけれども、それでも到達出来ること出来ないことはあるでしょう。
事業責任者として、各スタッフの最高の人生を歩んでもらうためにしっかりと個人個人に着目をしていきたいと思った次第です。
与えられた永い歴史のおかげで多くの学ぶ機会を与えていただいているとも思います。
環境に感謝しまして、より多くの社会貢献に勤めてまいります。