西郷隆盛は死罪に近い環境での島流しに送られる際に言志四録や韓非子を持って島に渡ったと言われています。
以前にKAILに登壇されたぐるなび創業者の著書にも中学生が死を前にして学び始めた話がありました。
私が見てきた定年退職前の方もそれまでの態度・評価があまり高くない方ほど定年直前の2~3年で善人になる傾向を間近で見てきました。
学生の頃に見た事のあるドラマでも『死を前にすると人間は善人となる』と言うくだりが有りました。
これは何かとても大きなメッセージであるように思います。
結局人生は死を前にするときに多くの本性が表れます。
死を受け入れているかによっても大きく異なるとは思いますけど、定年などは受け入れやすいものでも有る友うので、自分が去る時にどのような印象を残したいのかと深く考えるのだろうと思います。
これだけ歴史書などが有る現代では、死してなお悪人と記載されるのか善人と記載されるのかの違いを多く理解されています。
やはり、次世代にどのような記憶で残りたいかを考えているのだろうと思います。
逆に晩節を汚す方もいらっしゃいます。
これは、引き際を見極められなかったり、不満が残っている証左なのだろうと推察いたします。
若しくは欲に負けてしまったのだろうと思います。
欲は成長の源であり、とても大切な原動力になると考えていますけど、それは公欲であるべきで、私欲に捉われますと良い結果にはつながらないと思います。
四書五経の『大学』では「大学の道は明徳を明らかにする有、民に親しむるに有、至善に止まるに有」と始まります。
学ぶ理由は此処に極まると考えています。
あまり、丁々発止のやり取りが得意では無いので、違和感が有っても適切に指摘出来ない事が多く歯痒い思いを多くしますけど、私が感じる点はこの私欲が前面に出ている方とのやり取りです。
学んでいる目的が自分自身の評価を上げることでしか、分からない方が多いように思います。
そのような方は努力をすればするほど、他の人との距離は離れていくでしょう。
この気付きは容易ではないのかも知れませんけど、人生において大きな差に繋がります。
自分が学び成長することで周囲の環境をよくすることが出来ることに繋がっているかを考え続けてもらいたいと思います。
その為には『足るを知る』が必要なのかもしれません。
明治維新以降、欧米の思想に巻き込まれていきますと、この知足の発想が乏しくなっているのかも知れませんけど、人新世の現代ではとても大切な考え方となってくると認識しています。
武漢ウイルスに端を発したコロナ禍が落ち着いた際には、日本においては人口減の問題と世界としてはCO2による環境変化の問題が大きな課題になると見込みまして、この一年準備をしてきております。
次世代により良い未来を残すべく、現役社会人としてしっかりと務めを果たすためにもより高次元での学びに邁進いたします。
ISLやアスペンによって大きく慧眼を開かせていただきました身としましては、勝手ながら小林陽太郎氏の先見の明に少しでもあやかりまして、行動を実践してまいります。