死を想え  メメント・モリ

普段から死について考える機会は少ない方だと思います。
そのことについて考えること自体を苦手ともしています。
それは、物心がついた小学生のときから恐怖でしかありませんでした。
意識としてはいくつになってもあまり変わらないままでした。
今でも恐怖の方が大きいことは感じていますが、ある程度意識をコントロールするようにしています。
死について考えると何も手が動かせなくなるほど、悩んでいた時期から解放され始めたのは、小宮一慶氏の本を読んだ際に、人間が死んだ後どこに行くのか?という問いに対して、人の心の中に行くのだと言う解釈が現在の私にとっては最も腑に落ちる理屈でした。
宗教とは、この死の恐怖に対して乗り越える為に必要な人類の英知の一つだと思っています。
それでも日本の宗教は文字通り家で示す程度の教えであったりするので、イスラム教やキリスト教のような一神教に対しては少々身構えるところがある様に感じます。
先日、食卓での話題で子供たちと死について語る機会がありました。
全員が小学生になっている子供たちは一様に死を恐れていましたし、思考を止めたがっているように感じました。
その気持ちは私も同時期に持っていたものなので理解しますが、どこかで自分自身が考える機会を持つべきなのだろうとも強く思いました。
人間は死から逃れられません。
なぜ生まれて来たのか?を根源的に解決することは出来ないように考えておりますが、自らで生きた証や生きる意味をつける事はできると思っています。
以前、ボスから『飛行機が落ちると分かってもジタバタしない自信がある。それだけ日々後悔の無いように今を全力で生きている。』と言われたことがありました。
私には衝撃でした。
今の私には死の覚悟などはまだまだ有りません。
生涯、身につくことは無いのかも知れません。
それでも次世代に対してしっかりと残せるもの・伝えるべきものを渡したいと願います。
死があるから生がある。
日本では死生観と言いますが、中国では生死観と言うそうです。
この言葉が反対なことには意味があります。
日本人は自分の尊い命以上に大切なものがあるから、どこかで決断する覚悟を涵養されています。
それに対して、中国では自分の命以上に大切なものは無いから、何が何でも生き残ることが優先される傾向にあるそうです。
もちろん、全てをステレオタイプに評価することは出来ませんが、私にはとても伝わりやすい話でした。
自己犠牲、利他の心を持つことなど、高貴な人間が求められている行動を自分自身が取れるのか?これからも自問していきたいと思います。
春に新入社員が入ってくる中で、いつの日か必ず来る自分自身の卒業について考える機会を頂いたように思います。
野生の動物のように日々を全力で生きずとも生活が出来る人間はとても贅沢な悩みの中で暮らしているのかもしれません。
それには与えられている使命がどこかにあるのだと感じずには居られません。
我々は何者でどこから来てどこへ行くのか?突きつけていただいた質問に回答できる日はまだまだ時間がかかりそうです。
セネカさんの時代から人生の短さは嘆かれ続けています。
限られた時間を大切に過ごすことがとても大切だと思い、感謝を持って日々を全力で生きてまいります。