文化の背景を知る

米国にて銃による残念な事件がありました。
都度、日本では「何故、銃を規制しないのか?」という議論が起こります。
米国内でもある程度は議論されているかと存じますけれども、この問いに対する私の回答は、「日本で包丁による殺人等が起こったら、包丁の規制の話が出るでしょうか?道具その物の問題ではなく、使用方法に理由がある以上、道具の規制には至らない。」です。
何より米国内では銃の方が平和に貢献していると感じるのです。
自然との共生の中で、人間よりも強い生物と対峙するには、それなりの武器が必要でしょう。
人間同士でも歴然とある力の差の前では武器が必要となっている場面が多いことであろうと推察しています。
残念ながら、人間には倫理観を強制出来ないことは自明の理であるように思います。
その為に宗教を活用して幼い頃からの習慣で、野生を抑え、共生を育もうとしてきたことが人類の歴史でもあると考えています。

世界各国に限らず、国内の地域ごとにおいても様々な文化があります。
それらには背景があり、現在の価値観で語れるものばかりでは無いことが多分にあります。
全国各地で行われているお祭り一つとっても地域によって差があります。
同じ名称のお祭りでも隣町とは少し異なっているものです。
歴史・文化はその土地にいる人が創り出し、育み続けます。
継続は容易ではないので、時代によって変わるべきものは変わっているからこそ、伝統というものに繋がるのであって、全く変わらないものなどなく「万物は流点する」のは事実です。
それでも文化の背景にあります価値観・想いは簡単に変わるものではなく変わるべきではありません。
そこに思いを馳せるには創造した時代に遡り、それから脈々と繋がってきた歴史を知らなければ行けません。
何かを改善するということは、改善するに足るというそのもの自体を認めていることも含まれていると思います。
でなければ、改善自体が無駄になると判断されるでしょう。
改善項目への評価があるのであれば、それに対する敬意が無ければ、良い改善には繋がらないと考えています。
我が社の短い歴史においても、なんらかの文化は産まれ続けています。
革命のように歴史を分断するようなやり方では、周囲からの評価は良くてもゼロ、基本的にはマイナスからのスタートになるでしょう。
何かを批難したり、単なる評論をするだけの人を見る時、祖母から言われ続けた言葉を思い出します。
それは『人を指差したら、三本は自分を向いている。まずは、自分自身が変わるべき、そうすれば世界が変わり始める。世界を変えることを難しいことだと考える必要は無い。』でした。
何かを否定することは簡単ですが、代替案が無ければ、小学生の戯言です。
他の国(他人)の事をとやかく言う前には、まずは自国(自分自身)を正しく律し、相手に敬意を持って接することが事の始まりであろうと思いました。
この世の全ては自分の責任だと思い、与えられた人生を引続き全力で生きてまいります。
そして、少しでも社会に貢献できることを増やし続けます。