自らで学習する個人・組織

ここ数年のグループのテーマの一つでもある表題です。
創業時より常に意識から消えることはなく、強い関心事を持って取り組んでいます。
ただ、未だに適正な答えは無く、今の自分にできることは「愛」をもって接するという位です。

人間には知的欲求と言う本能があるのだろうと信じています。
ただ、これは強い弱いも有りますし、習慣になっているかも結果としての大きな差を生んでいると実感しています。
動機づけの話もよく出るものの、私の頭の中には小宮一慶氏の「モチベーションより働きがい」が鳴り響いていますので、アメとムチと言うようなスタンスにはまり込むのは何かが違うのではないかと考えています。

趣味の世界の話であれば多くの方が誰に頼まれるでもなく勝手に勉強してどんどん詳しくなっていきます。
なぜ、仕事となるとそれが出来ないのか?それは多分に個人の仕事観に因るのだろうと思っています。
ただ、これもまた淋しい話が多く仕事観と人生観がリンクせず、仕事とはそんなものと言う程度の方が多数存在してしまっているように感じます。

私は、よく「世界を変えたい」と言いますが、この世界とは自分が存在している世界であって、何も70億の人間に対してのインパクトを与えたいと考えているのでは有りません。
自分が想定できる範囲でしか希望通りの影響を与えることは当然適わないと思っています。
想定外の好影響や悪影響があったとしても、その場合継続性は非常に低いものになるだろうと思われます。

自分自身が成長することに貪欲になれないのには現状に満足しているという事実もあるのでしょう。
それでも、知的欲求が本能ですから勝手に学習する個人・組織は継続を続けます。
この辺が風土の問題として捉えるのか?突然変異のみで片づけるのか?で対応は別れることでしょう。
私は、風土(環境)に大きな影響が有ると考えています。

会話の中身が雑談であったとしても学習に繋がるような知的レベルの高い会話が自然にできる方やそれを求める方はいらっしゃいます。
このような方々と触れ合う事で自分の知的欲求も刺激されているように思います。

学習の機会を設ける際に子供の教育同様、「押し付けは良くない。自らの意思が無ければ成長にはつながらない」とよく指摘を受けます。
当にその通りと思いつつ、学習の喜びと言う気付きを持っていない段階の方にはまずは強制でも知的水準が上がることでの喜びを感じる経験が必要なのでは?と思うのです。

ひとたび火がつけば、趣味同様勝手に個人は成長を遂げていきます。
結果、組織にも化学反応が起こることでしょう。
そのきっかけ創りは常に意識し続けると共に学習を始めた個人がその欲求を満たしやすい環境を整えることも私の責務と捉え経営の重大課題として今後も取り組み続けます。

学習の要諦は言志四緑第一条に有ります「当に自ら己を恃むべし、人の熱に因ること勿れ」であると考え、先ずは私自身が正しく学習をして、立派に成長する事こそが肝要なのだろうと、自責の念で取り組む所存です。