表題は、飯塚病院に隣接している麻生塾専門学校の中を歩いている時に見つけた言葉です。
この言葉に大きな衝撃を受けました。
高校卒業して社会人になる前にこれだけの心構えがあるという事と、
大切にしたい価値観を非常に伝わりやすい表現でされていたからです。
何事も自分で決めている人生のはずなので、その言葉行動に責任を持つのは当然だと思っています。
日本は大変に恵まれていて、自由が多くあります。
この日本で息苦しさを感じているのであれば、それは世間知らずでしょうし、狭い世界で生きることを決めた証拠でもあるように思います。
これだけ職場を選択する自由や、住居に関する自由を与えられているのに自分の環境をただただ嘆いているだけなのは淋しい限りです。
環境を憂うのとただ嘆くのは異なります。
それは、次の行動に繋がっているか?一歩を踏み出すか?という大きな違いです。
職場においては、理解できていない中での上司の命令もあるでしょう。
それでもそれを実行するのを決めたのは御自身なのではないでしょうか?
社会主義国家では、命令違反は即、死を意味する場合も有りますけど、日本においては特殊事情以外それは無いでしょう。
その特殊事情も恐らくはご本人が蒔いた種によるものだろうと推察します。
ロクでもない上司が居たとして、社会的に問題な業務指示が発せられても、それを守らないことによってお咎めを受けることがあるでしょうか?正当に主張しても直属の上司でなくトップから処罰の対象になるとしたら、その組織に属している意味は何なのでしょうか?
経済の為に今の職位にしがみつくというのは嘘だと思っています。
それまでに自分に実力を身に付けなかったがために外で勝負出来ず、個人の信念通りに行動できないと言うご自身の弱さではないでしょうか?
実際に話を聞いた時にそもそも信念などなく流されて生きてきたがために、上司の言わんとすることを正確に理解できずにやりたくないことから表現含め転嫁している方が多いようにも感じます。
夢を語るときには自分だけがハッピーになるものであってはいけないと思いますし、役職や立場、絶対的な報酬だけを設定するのもいかがなものかと思います。
役職、立場、報酬は全てツールでしかないはずです。
一時的な目標には成り得ても目的に設定すべきことではありません。
人を楽しませることが夢の方はその影響人員が、結果として一人であるか、一億人であるかの違いは有っても、夢の到達は諦めなければ叶うと信じています。
先日、高校生の夢を聴く機会が有りました。
皆、夢を語ることはできても叶う物なのか不安そうでした。
私がお伝えしたのは、
「夢が自分だけではなく人の幸せにも通じるものであれば必ず叶う、その為には自分自身が強い覚悟を持ち決してあきらめないことが何より重要、それに加えて如何に応援団を増やせるかが大きな夢に力をくれる」と言う点です。
人間は弱くも有り、信念の前に立てなくなるような思いになる時もあってしかるべきだと思っています。
その時に力をくれるのは周りの支えであり、その支えを作れるかは当人の情熱であると思います。
会社経営に10年携わって、私にはまた大きな夢が見えてきました。
この日本を力強いものにしていきたい、その為には正しい経営者が必要と考えているので、僭越ながら経営者を育てていくことに関わっていこうと思います。
設備・施設管理を通していても、日本・世界への貢献は絶対にできると確信して事業を継続してきました。
これから更なる夢に向けて一歩づつ進んでいく所存です。
これまた自分で決めたことですので、最後までやり通します。