先月末の事業責任者会議でも創立からの振り返りをする機会がありました。
今回坂本氏がお亡くなりになり、会社の一時代が変わったことを物理的にも感じざるを得なくなりました。
この会社の母体は、角さんという優秀な経営に理解あるエンジニアが牽引してきた飯塚病院の施設環境サービス課を分社独立させたものです。
その背景となる現場の一切を取り仕切ったのは坂本であることを否定できる人間は弊社関係者ではいないことでしょう。
現場を取り仕切るだけでなく、時代の移り変わりにも敏感で新しいものにも積極的に興味を持ち、自分の手と目で確かめたものだけを信じる職人の中の職人である生き様でした。
酒もタバコも呑み、パチンコも大好き、後述しますが残業も一切せず時間に厳格な人間でした。
パチンコで勝った日は突然に電話がかかってきて、「儲けた金は人に使わないと次から勝てなくなる。今回はアンタに使う。」と言って晩飯後でも無理やり外に連れ出させられて飲んだりする機会も何度かありました。
ご家族の事も大切にされていたことを良く聞いてはおりましたが、心から部下想いの方でした。
部下員の悩みをいつも正面に捉え深い愛情を持って返していました。
職人らしく言葉は少なく若者には理解出来ない表現もあったかも知れませんが、あれだけの愛情を持って常に各人の行く末を心から案じる姿勢は人として教わることの多い方でした。
初めての出会いは、麻生開発から三信ビルに出向している際に現場で飯塚病院に行った時でした。
失礼ながら最初の印象は堅気の方では無さそうで、凄い人も働いているもんだと感心しておりました。
その後三年ほど後に、飯塚病院施設環境サービス課に配属になりまして、改めてご挨拶をさせて頂きました。
現場スタッフからは角さん以上に恐れられ、今日の機嫌について良いか悪いかなど良く囁かれていました。
「何故、この作業をするのか?」との質問に当時一番多かった回答は「坂本さんが言ったから。」「坂本さんが始めたから」の類であったと記憶しています。
敷地内禁煙になる前でもありましたので、タバコ好きは堂に入っていてきっちりした職人らしく常に机の中にツーカートン程度を入れており、後輩にも良くタバコを分け与えていたのも印象的でした。
休日出勤や台風待機の際は、現場に出るスタッフの為に栄養科に無理いったりご自身のお金で食材を調達・調理され振舞ってくれました。
年末の仕事納めでは長年年越し⚫️⚫️を蕎麦、うどん、瓦ソバなど様々な趣向を凝らして頂きました。
残業しない代わりに朝は早い方でした。
5時半前後には現場に入られ、点検や事務処理をされていました。
忙しい時は4時に出てくるなど残業ではなく、朝出勤を励行されていました。
私も朝は一時間は早く出勤する習慣がありましたので、良くお話する機会も頂戴しておりました。
最初は何故早くくるのか訝しがっているようでしたが、今にして思いますとその後も2週間程度継続した段階で、認めて頂いたようにも思います。
それからの朝は贅沢な坂本個人塾のような環境で、会社設立の準備でAIに入るまでの一年弱に色々と仕込んで頂きました。
毎週月曜は機械室巡りからの始まりで、どこをどのように見るべきか、何がおかしくてどこに危険があるかなど多くを教わりました。
現場での疑問はオフィスでホワイトボードに図解して頂き分かりやすく指導頂きました。
本当に理解できている人は分かりやすい図解説明が出来るものだとその時から確信しています。
時折、角さんの代理で出席する病院全体の会議での姿は坂本さんらしさ全開で興味の有無が見た目で誰にでも伝わりました。
それでも会議で一度口を挟むと参加者は敬意を評しているのが伝わりました。
また、言いたいことや聞きたいことが終わったら途中退出も公然と認められており、現場人間であることが周知されていました。
病院スタッフからの信頼も厚く「坂本さんが言うならそうなんだろう」と可否判断でも異論は出ませんでした。
ドクターとも議論をして、施設を担当するものとしての矜持を示し、職位職種に隔たりなく人として接する方でした。
会社を興してからは、不安を感じているスタッフの気持ちを代弁して私に伝えてくださいました。
設立当初はオフィスに角さんと坂本さん、私の三人でしたので朝の時間など話す機会は多分にありました。
67歳の年度末に角さんと共に「区切りとして一度身を引きたい」との申し入れがあったので、「いつでも戻ってきてください」と伝えておりましたら、2週間後には「いつでも戻る準備は出来ている」と電話された事も嬉しい思い出でした。
今年の3月末まで業務に従事して頂きましたので、生涯現役、ピンピンコロリを絵に描いたような方とも言えます。
私が思い出すフレーズは「旧態依然はイカン」「五感を研ぎ澄ませて点検せよ」「切磋琢磨できる関係が大切」「少数精鋭の集団であれ」です。
私からは一度の引退後は「後輩に生き様・死に様を見せつけてください」とお願いをしておりました。
「生涯現役の後ろ姿を後輩は見ています。何にも負けない姿勢を常に示してください。」とご本人にとっては嬉しくない厳しいお願いをしておりましたが、想像を絶する生き様・死に様は私含め多くの後進に指し示すことの多い素晴らしい人生でした。
会社に対しては、ある程度ご安心頂くにいたり、「二十周年を楽しみにしてる。」と言われました。
他に個人的に気にされていることは聞き及びましたので、可能な限りバックアップをさせて頂きたいと存じます。
今にして思いますと、部下員には言えないよう情けない姿や言動も坂本さんにはさらけ出していたように思います。
その度に話を聞いてくださり、それでも次の一歩を踏み出す力を頂いておりました。
やはり、この紙面では表しきれないなと思いつつ、筆を置きます。
坂本富士美は私の中で生き続けます。
そして、坂本との約束通り二十周年をしっかりと提供するための活動を日々継続しています。
旧態依然の体制ではなく朝令暮改で常に刷新を続けて、苔の生えない組織とします。