東日本震災から十五年の月日が経過しました。
私の人生で子供が産まれたこと以外で最も影響を与えている事象だと考えています。
当日はことの重大さを知らずに過ごしておりました。
翌日は鹿児島の病院の引越作業に従事の後、本来は宿泊のつもりでしたが、終わり次第、早々に帰福しまして、情報収集に努めました。
さまざまな情報が飛び交う中、福島の映像を中々見ることができず、テレビの報道でも東北の地理を知らない方のコメントも有り困惑することが多かったことを記憶しています。
私自身は明けた月曜の会議まで参加しましたが、その中での各人からの問い合わせなども有り、翌日には福岡で買える防災グッズを多く集め、実家に向かいました。
3月18日に軽井沢町の協力を得て、当時原発との関係で立入に制限が有った福島入りする許可を貰い、大型トラックに多くの救援物資を積んで、開通前の東関道を抜けて東北自動車道を走ったことを思い出します。
東北道は、一部破損していましたが,急ピッチで復興作業に入っている方々がいらっしゃって頭が下がるばかりでした。
最初に南相馬に向かい、道中日帰りを命じられているであろう自衛隊や消防隊などの多くの救急車両とすれ違う中で、日本国内の景色とは思えない長蛇の特別車両に今から向かう地が果たしてどのようななっているものかとの畏怖も生まれてきました。
南相馬で多くの虎屋の羊羹のほか様々な救援物資を渡した後に暗くなった相馬市に入り、震災三日後に入っていた兄貴と合流を果たすことが出来ました。
多くのボランティアの方も駆けつけてくれており、相馬中村神社で雑魚寝で過ごしていました。
捜索活動が継続しているので,現場は明るくは有りませんでしたが,宿泊地に戻りましたら,せめてこの場だけでも明るくしようと皆が気丈に振る舞っていたことや場を作り込んでいたことも心に刻まれました。
悲しいことばかりの中で心が揺さぶられ続けられるため、笑いも泣きも行ったり来たりでした。
長野県から許された許可は一泊だけでしたので、翌朝に帰りましたが,ボランティアの方の情報を貰い翌日以降にはまた相馬入り出来る手筈を整えて貰い、以降は3月31日まで相馬に滞在して出来ることを実行していました。
3月31日と4月1日は決算処理並びに年度始めの対応をしまして,また4月3日には相馬入りを五月の連休までさせて貰いました。
日中はボランティアに携わり、夜間頃から仕事のメールやらをチェック返信するなどして、FOMAのデータ通信で業務的にもそこまでの支障をきたさなかったこともデジタル変化の波で助けられました。
今なら更なるデジタル化で出来ることは更に増えているとは思いますが,携帯とデータ通信で全国どこにいても経営という職種はある程度務まるものと理解もしました。
立場上、これ以上の空白を作るのであれば、退職もと頭を過りましたが,振り返ればグループやメンバーに支えられ事業継続が出来ました。
グループからの寄附金も当時の財政からはとても有難いほどの金額をご寄付賜りました。
我々は設立三年目でしたが,内一割を負担させていた事も有難く感じました。
現地での状況は3月末までで、立入禁止区域に変更があったりと常に環境変化が続いていました。
印象に残っているのは、3月23日に相双地域でローソンが初めて店舗運営を再開したときには、多くの方が喜んでいたことです。
以降、長友グランドで学生がサッカーをしたりと普段できる活動が少しずつ戻ってきたようにも記憶しています。
残念なことではあるものの、なんとなくゴミも落ちるようになってきていましたが、それを見て兄が『ゴミが有ると言う事は、少しずつ余裕が出てきた証拠でもあって、何も悪いことばかりとは言えない』と発言したことはとても心に残りました。
野馬追に関しては、震災翌日から、『こんな時だから野馬追を何らかの形でも実施すべき』との見解で家族はまとまっていました。
現地に入った際にはそれどころでは無いと言う方もいましたし、そのような雰囲気が色濃くありましたが、今回の震災がご先祖様から聴いていた『天明・天保の大飢饉』や『第二次大戦中』と比して、困難な物とは思えませんでした。
何より、原発などと言うたかだか60年程度の技術の歴史に千年を超える伝統が敗北するとは思えませんでした。
その後の武漢ウイルス(COVID-19)時にも取り止めは発想に無く、出来ることを出来る形で実行すると言う気風はこの時点で生まれていたと思います。
それでも実際には多くの方の多大なる協力を得て、その年に野馬追が執行できたことは歴史と伝統を継ぐ現役の人間として、とても有難く、感謝を心に刻みました。
本年も野馬追が開催されます。
この十五年で震災の年に産まれた娘が中学を卒業するまでに至りました。
時間は立ち止まらず経過していきます。
常に現在も様々な課題が目の前に立ちはだかりますが、あの時に感じたものに比べればそこまで困難な物では無いと感じています。
震災時の話などは、あまり話したくない事もありましたが、今回は十五年の時を経て残しておくべき記録は残しておこうと思い、記載しておくことを決断しました。
これからも一度きりの人生を大切にして、次世代の為に社会の為に活動を継続してまいります。
お世話になった地域の為に事上磨錬で日々を大切に『即今、当処、自己』で邁進いたします。